吉田 啓二 氏 - キャリアインキュベーション | ハイクラス・エグゼクティブの転職・求人情報

EXECUTIVE INTERVIEW

投資先経営人材インタビュー

吉田 啓二 氏

新日本開発株式会社 代表取締役 (2022.02.24)

https://www.eco-snk.jp/

1982年京都大学大学院工学部建築学科修了後、株式会社神戸製鋼所入社。海外プラント建設プロジェクト、国内都市開発プロジェクトに従事。在籍中、企業派遣でデューク大学MBAを取得。2001年日本コーリン(現・フクダコーリン株式会社)入社。米国子会社副社長と本社管理本部長を兼務し、民事再生を主導。2005年リサイクルワン(現・株式会社レノバ)で子会社立ち上げを統括。以降、J-STARからの派遣により、2012年太平洋精機株式会社代表取締役副社長兼中国法人の董事長、2019年新日本開発取締役(現職)を務める。

環境ビジネスを手掛ける新日本開発株式会社は、J-STARの投資先であり、代表取締役の吉田啓二氏はJ-STARから派遣された経営者である。実は、吉田氏がJ-STARの投資先で働くのは3社目であり、またそれらの投資先とは別に以前勤務していた企業が別のPEファンド傘下に入った際に事業再生を主導した経験もあることから、PEファンドとの協働は延べ15年以上となる。常に高い成果を求められるPEファンドから、長きに亘って信頼を得ている吉田氏へのインタビューを実施した。

[1]企業の紹介、今後の展開について教えてください

新日本開発は兵庫県姫路市を拠点に、産業廃棄物処理事業と家電リサイクル事業を手掛ける企業です。連結の従業員数は130名、売上高は55億円程です。

産業廃棄物処理事業は、1972年の会社設立以来の中核事業です。焼却炉を5基所有しており、一日当たりの焼却処理能力は400トンと西日本トップレベルを誇っています。我々の強みは、前処理場を所有していることです。前処理場では、廃棄物の性質を個々に見極めて、焼却時に安定して燃焼するようにブレンドする工程が行われます。例えば、ドラム缶に入った廃棄物の中身を一つひとつ取り出して、それぞれを最適なブレンドにするといった具合です。大手の産業廃棄物処理場では、焼却前の処理はピットの中に廃棄物を一括で放り入れてクレーンでかき混ぜて均一化するピット&クレーン方式が主流ですが、この方式では処理できない廃棄物も多々あります。そうした他社では扱えない廃棄物も、前処理場を持っている私たちであれば処理できます。そのため、私たちの取引先の約3割は兵庫県外の事業者で、関東地方や中国地方など遠方からも廃棄物が運ばれてきます。たとえ輸送コストがかかっても、十分に採算が取れるのです。今後はこの強みをより訴求できるように、マーケティングや営業スタイルを変えていくことでビジネスの拡大を図ります。また、現在は前処理工程の処理能力の制約で、5基ある焼却炉のうち4基しか同時稼働できていないので、機械化などで前処理工程の生産性を上げることで焼却工程に回せる量を増やし、全体として処理能力をさらに向上させていきます。

家電リサイクル事業は、2001年施行の「家電リサイクル法(特定家庭用機器再商品化法)」に対応した、使用済み家電製品から高純度・高回収率の再資源化を行う事業です。グループ会社の株式会社アール・ビー・エヌで行っており、年間約90万台を取り扱っています。規制産業のため事業拡大は難しいのですが、老朽化した工場を建て替ることで、生産性と品質を向上させ利益率を上げていく方針です。また、工場の建て替えで土地に余裕が生まれるので、将来の事業拡大方法を模索しています。

[2]自己紹介をお願いします(現在に至るまでのキャリアの変遷と転機について)

私は兵庫県明石市の出身で、82年に京都大学大学院工学部建築学科を修了し、神戸製鋼に入社しました。建築の専門性を活かしながら海外と関わるビジネスをしたいと考えていて、当時まだ国内事業が中心だったゼネコンよりも、海外案件が中心のプラント事業に関心を持つようになり、海外プラント事業であれば、専業企業よりも製鉄会社の方が技術的競争優位性があると考え、地元の神戸製鋼に入社しました。入社して早々に、製鉄プラント建設プロジェクトの現場監督としてリビアに赴任しました。当時神戸製鋼はプラント事業に参入したばかりで社内に十分な人的リソースがなかったために新入社員の私がいきなり大役を担うことになりました。若い時に責任ある仕事を経験できたのは本当に運が良かったと思っています。3年後にリビアのプロジェクトが完了した後は、中国の工場建設プロジェクトに赴任し、海外MBA留学を経て、帰国後は明石市と神戸市で行われた大規模都市開発プロジェクトで住宅事業の責任者を務めました。神戸市のプロジェクトでは隣接するマンションと有料老人ホームを手掛け、マンションと老人ホームの入居者が交流できる共用のクラブハウスをつくり、国土交通大臣賞を受賞しました。神戸製鋼では大規模プロジェクトに携われるという大企業ならではの面白さはありましたが、一方で個人の裁量はそこまで大きくなく、より自分の裁量を広げたいと考えるようになりました。そして、ヘッドハントを受ける形で2001年に医療機器メーカーの日本コーリン(現:フクダコーリン株式会社)に米国子会社副社長として転職しました。海外法人のエグゼクティブとしてのヘッドハントは当時としては珍しかったと思います。当初は現地に赴任して米国事業の立て直しに取り組んでいましたが、次第に日本本社の財務状況が悪化し、再建の道を模索しなければならなくなったため、日本本社の管理本部長を兼務する形で日本に戻りました。再建方法について弁護士と何度も議論を重ね、カーライル・グループをスポンサーとした民事再生の道を選択しました。ただ、社員の理解を得るのに相当苦労しました。実はスポンサー候補として、カーライルの他に1社大手医療機器メーカーが名乗りを挙げていて、多くの社員がお金は出してくれるが事業をどこまで理解しているか不明なファンドよりも、同業企業に売却した方が良いと考えていました。しかし、私はそのタイミングで同業に売却すれば救済合併となり、合併後の社員の立場は非常に弱くなってしまうため、カーライルを支持しました。社員の理解を得るために何度も説明の場を設け、説得を重ねました。最終的には、社内の理解を得てカーライルをスポンサーとして選定、事業を立て直して大きくバリューアップすることができ、2年後にExitできました。当時は、日本で民事再生法が施行されて間もない時期で、かつ2年という短期間で高額で売り抜けたことで、日本コーリンはファンドによる民事再生の象徴的な事例となりました。

Exitを見届けてから退任し、2005年に環境ベンチャーのリサイクルワン(現:株式会社レノバ)に入社し、リサイクルビジネスを行う子会社2社の立ち上げに従事しました。その子会社立ち上げに際して出資してくれたのが、当時設立間もないJ-STARでした。J-STARにとっては投資第2号案件でした。

無事子会社2社の立ち上げが完了した後は、J-STARにお声掛けいただいて、2012年に投資先の建設機械部品メーカーの太平洋精機の代表取締役副社長兼中国法人の董事長に就任しました。私はメイン工場がある中国を中心に、海外ビジネス全般を担当し、ストライキなど様々なチャイナリスクに直面しながらも無事にExitできました。

その後、2019年に、J-STARの投資先である現職の新日本開発の社長に就任しました。

[3]なぜ今の会社/ポジションを選択されましたか?(なぜ経営者を目指されたのですか?)

太平洋精機のExitの後、そろそろ地元兵庫県に帰りたいと考えていたところ、J-STARが姫路市の企業を買収する事になり、かつ、環境ビジネスでリサイクルワンでの経験が活かせるので、またしてもJ-STARにお世話になることになりました。私の場合は経営者を目指したというよりも、ビジネスとして売上、利益を上げる事に夢中で取り組んでいく中で、徐々にマネジメントへとキャリアがシフトした感覚です。

[4]経営者に必要なメンタリティ、スキル、経験とは何でしょう?

経営者は、大なり小なり毎日何らかの問題・課題に直面しており、常にストレスが掛かります。そのため、楽天的であること、許容力、忍耐力、ストレス耐性がないとやってくことができません。また、常に人から見られているため、自制心も必要です。大変な日々ですが、その分成果があがった時には、それまでの苦労が全て吹き飛んでしまう位、大きな達成感を得られます。

[5]これらのスキルなどをどこで手に入れたのでしょか?

様々な状況に置かれ、知恵を絞りながら、その時々の問題を解決していく過程で身につけました。神戸製鋼では、技術職としてプラント建設の現場監督を経験した後、都市開発プロジェクトでマーケティングなど事務系業務を経験しました。日本コーリンでは、米国子会社副社長としての事業の立て直しや、日本本社の再建、また管理本部長として経理・人事も経験し、本当に広い分野を経験しました。また、安定した企業よりも、“過渡期”にある企業の方が様々な経験を得ることができます。私の場合はPEファンドの投資先という“過渡期”に置かれた企業に長く在籍する中で、得難い経験ができました。

[6]過去に体験した最大の試練やストレッチされたご経験について教えてください

やはり一番印象に残っているのは、新卒早々に赴任したリビアの製鉄プラント建設プロジェクトです。クライアント、コンサルタント、サブコン、エンジニアと自分を取り巻く全員が外国人で、国籍もシンガポール、インド、韓国、中国、バングラデシュと本当にバラバラでした。当時は、携帯電話さえない時代なので、気軽に誰かに相談したりもできません。その中で、新人の自分が現場監督として指揮を取らなければならず、スケジュール通りに物事を進めるために現場が終わった後も1人で先々の準備をする毎日でした。本当に大変でしたが、この経験を通じてマネジメントの大切さや面白さを知ったことで、自分のキャリアが技術職から事業マネジメント、会社のマネジメントへと広がっていったのだと思います。

[7]ファンド投資先企業で働く際の特徴について教えてください

ファンド投資先の経営者は、ファンドに対しては良いExitができること、社員に対しては安心して働けるようきちんとした経営をすることという2つのミッションを持っており、この両者の折り合いを上手につけなければなりません。特に、社員はいつか必ずExitすることを分かっており、最初はファンドからの派遣で外様として就任するため、信頼を得るまではかなり苦労します。Exitに向けたアクションが将来必ず会社を良くしてくれると社員に信じてもらえるよう、きちんと対話をして、同じ方向を向いて協働していけるように信頼を勝ち取っていくことが大切です。

[8]経営者となった今、何を成し遂げたいとお考えでしょうか

私の場合は、創業経営者とは違う外部から来た経営者であり、会社をドラスティックに変革することでは無く、将来的にも会社が安定して成長できる基盤を創ることを成し遂げたいと考えています。社長を辞任する際に、私が社長で良かったと言ってもらえる成果を残したいと思っています。

[9]最後に、マネジメントポジションを目指す方にメッセージをお願いします

経営者の仕事は、誰にも褒められず、日々様々な問題と向き合うストイックな仕事です。想像と違う部分も多いかもしれません。ただ、それだけ得られるものは大きく、やりがいも達成感もあります。そうした側面を理解した上で、是非チャレンジをして欲しいと思っています。良い経営者の下では会社も大きく変わります。日本には、まだまだ海外に出たがらずに小さく縮こまっている会社も数多くあります。若い方は英語が得意な方も多いので、是非日本の会社をどんどん変えていって欲しいと思います。

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